作家
 小田 実のホームページ 毎日新聞連載 西雷東騒

■  2006年3月28日号
(最終回)新しい時代を生きよ
■  2006年2月28日号NEW
私の「反戦」の根拠
■  2006年1月31日号
デモ行進と市民社会の成熟
■  2005年12月27日号NEW
市民の政策づくり「教育」への「提言」
■  2005年11月29日号NEW
「大東亜戦争」を再考する
■  2005年10月25日号NEW
ラジオ・ドラマ「GYOKUSAI」の「メッセージ」
■  2005年9月27日号NEW
「災害大国」としての日本、アメリカ
■  2005年8月30日号NEW
いったい彼らは何のために殺されたのか
■  2005年7月26日号
「若狭のアテナイ」としての小浜
■  2005年6月28日号
孫文の「大アジア主義」の「遺言」
■  2005年5月31日号
「玉砕」が今意味すること
■  2005年3月29日号
「小国」「大国」、そして「世界」
■  2005年2月22日号
「文史哲」のすすめ
■  2004年12月28日号
先住民族の文化について、また「正義」について―私の新年の辞―
■  2004年7月27日号
戦争を知らない大人たち
■  2004年6月22日号
「脱走兵」ジェンキンス氏が突きつける問題
■  2004年4月27日号
イラクの13歳の少年―彼の眼に事態はどう見えているか
■  2004年1月27日号
『国家至上主義』のまたぞろの台頭――「国破れて、山河あり」、なにより「民」あり
■  2003年12月23日号
アポロンの矢は大王に当たらない 兵士の犠牲強いる「大義なき戦争」
■  2003年12月2日号
世界価値増す平和憲法――社、共協力で「護憲ハト連合」を
■  2003年10月28日号
自民党の三人の政治家
■  2003年9月30日号
「主権在民」の基盤としての市民の政策、法律づくり
■  2003年8月26日号
「複雑怪奇」と「バスに乗り遅れるな」
■  2003年7月29日号
「される」側、「された」側の記憶と「する」側、「した」側の記憶
■  2003年6月24日号
敗戦体験の意味―米国で進む歴史の「悪」の再評価
■  2003年5月27日号
まず「市民安全法」を―市民にとっての「有事法制」づくり
■  2003年5月4日号
民主主義、自由の名の下で殺戮と破壊―アメリカと今いかにつきあうのか
■  2003年4月2日号
まずホコをおさめよ―「される」側の人間の理性の声
■  2003年2月25日号
ただの「エコノミック・アニマル」でない日本を
■  2002年12月24日号
ホメーロスとは何者か―ヨーロッパ、西洋文明の見直し―
■  2002年10月29日号
「国交」は「国家犯罪」の直視から
■  2002年7月30日号
『老いてこそ市民』の『市民予算』
■  2002年6月25日号
歯止めが崩れかかって来ている
■  2002年5月28日号
アメリカ合州国という名の「関東軍」
■  2002年4月30日号
小国の視点
■  2002年3月27日号
今、この世界の中で あらためてベトナム戦争を考える
■  2002年2月26日号
アテナイとアメリカ合州国・その酷似
■  2002年1月29日号
それは破滅ではないのか ―「正義は力だ」「力は正義だ」の論理と倫理―
■  2001年10月30日号
「平和憲法」をもつ日本―丸腰であることの重要な価値―
■  2001年9月18日号
「同盟国」日本が今文明から求められていること
■  2001年5月29日号
通底する二つの上訴
■  2001年4月24日号
「飛び級」よりも「亀」教育を
■  2000年9月26日号
「E−ジャパン」と「E−インド」―IT革命は人類≠ノ何をもたらすか
■  2000年8月29日号
八月、「年中行事」が終わっての感想
■  2000年7月25日号
ベトナム戦争、ユーゴへの空爆―マヤカシのない評価下すとき
■  2000年5月30日号
「神国日本」・天の力の貫通
■  2000年4月25日号
ベトナム戦争「惨勝」後25年― 手にした「平和」がある
■  2000年3月28日号
「阪神・淡路大震災」―被害者はニ度地震にやられる
■  2000年2月29日号
「ゆうが来た」日本の「世直し」―市民として、いま考える―
■  1999年12月28日号
市民の入らない、市民を入れない―「原子力・運命共同体」
■  1999年11月30日号
徴兵制と「良心的兵役拒否者」―民主主義国家での“奉仕活動”の意味
■  1999年10月26日号
「民主主義国」「人間の国」の土台としての「市民・議員立法」
■  1999年9月28日号
「経済大国」から「平和大国」へ―転換の「世界構想」
■  1999年8月31日号
「平和主義」か「戦争主義」か―「良心的軍事拒否国家」日本の選択
■  1999年7月27日号
私にとっての8月14日

2002年3月27日号
今、この世界の中で あらためてベトナム戦争を考える

 二月末から三月初めにかけて、私はベトナムへ行った。かつての「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の運動の参加者を中心に、私自身をふくめて三十人が出かけた。「ベ平連」は一九六四年、アメリカ合州国が強行した「北」ベトナムへの空爆――「北爆」に抗議して私や鶴見俊輔氏らがキモイリになって始め、そのあと「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に」「日本は戦争に協力するな」の三つの目的の下、日本各地に大きくひろがり、一九七四年、前年の「パリ和平会談」での和平協定成立を受けて解散するまで九年半余つづいた市民運動だが、ホーチミン市の戦争証跡博物館が運動の資料を保存、展示したいと申し出て来た。その申し出を受けて集めた資料の贈呈をかねて、三十人はベトナムへ出かけた。

 「ベ平連」が解散してからでも三十年近くが経つ。かつての参加者も年をとった。元「代表」の私は六十九歳。贈呈資料の準備、三十人の旅の組織の中心となった元「事務局長」の吉川勇一氏は七十歳。三十人のうちの多くがかつての「ヤングベ平連」の若者だが、今は五十代。面白かったのは、かつては大半がただの学生だったのが今は教師、協同組合の理事、知的障害の児童施設職員、市会議員、作家、弁護士、不動産業、主婦、フィットネス・インストラクターなど.多士サイサイの市民になっていることだ。「ベ平連」はよく「市民運動」の「元祖」と言われるが、この三十人はかつてよりさらに幅広く、また強く「市民」の存在と力をあらわしていた。

 博物館での贈呈式にハノイから来て立ち会ったのは、かつての南ベトナム民族解放戦線の副代表、「パリ和平会談」には南ベトナム臨時革命政府の外相として出席して、今は副大統領をつとめるグエンチビン氏だが、彼女も他のベトナム人たちも、私たち三十人の「市民」のありように強く心を動かされたように見えた。ベトナムは今、新しいかたちでの市民の政治参加を必要としている、それを政治の要路の人たちは認識し始めている――翌日、グエンチビン氏らとあらためて話して私はその印象を強くもった。

 私たちが博物館からの申し出を受け、資料集めに努力し、ついにベトナムまで出かけたのは、もちろん、ホーチミン市の戦争証跡博物舘というベトナム戦争の記録収集、保存、展示の本拠に日本の市民のベトナム反戦運動の資料が保存、展示されることは日本人、ベトナム人双方にとって、あるいはまた、博物館を訪れる世界各地の人間にとっても必要なことだと考えたからだが、さらにもうひとつ、昨年九月のアメリカ合州国での「同時多発テロ」、それにつづくアメリカ合州国のアフガニスタンに対する「報復戦争」の開始以来、「テロ撲滅」の大義名分の下、戦争を正義の発現とする、なすべきことだとする動きが世界全体でたかまって来ているからだ。今度ベトナム戦争のことを、現地で、現地のベトナム人たちとともに考える必要がある――と、これは三十人がそれぞれに考えたことだ。

 証跡博物館には、ベトナム戦争で米軍が投下した「地震爆弾」、CBU―55B爆弾の残骸が展示されている。
六・八トンの「地震爆弾」は、一発で直径百b以内を破壊しつくし、三・二`以内で「地震」を起こす。CBU  −55B爆弾は、一回の爆発で半径五百b以内の酸素を消滅させる。どちらもが、さらに強大なものに仕立て上げられて「アフガニスタン報復戦争」で大量に投下された。米国はまたベトナム戦争でベトナムの山野に枯葉剤を撒布した。博物館には、被害の跡を示す写真とともに、被災した女性の胎内から取り出された怪物としか言いようのない胎児を入れたガラス瓶が並んでいる。私たちの資料の贈呈式でも、赤十字の女性が今なおつづく被害の実態を、ビデオの上映とともに、怒りと悲しみを込めて話した。アメリカはいまだかつてこの被害について謝罪したことはない。まして補償したことはない。

 私たちはホーチミン市を訪れたあと、米軍の大量虐殺事件で高名になったベトナム中部のソンミまで旅した。一九六八年三月一六日早朝、米軍の大部隊がこの小さな村に襲いかかり、ほとんどが老人、女性、子供、いや、ほんの赤ん坊の住民五百四人をわずかな時間のあいだに殺し、家に火をつけた。私たちはたった四人の生存者のうち二人に会った。ひとりは当時十一歳の男、もうひとりは当時四十二歳の女性だったが、どちらもがそのとき家族全員を失い、「同じ人間なのに、どうしてアメリカ人はあんなおそろしいことをしたのか」と今同じことを言った。

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