作家
 小田 実のホームページ Web連載 新・西雷東騒

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若狭、小浜の読書会のことから
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安倍首相は辞任せよ
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二〇〇七年・新年のあいさつ
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「小さな人間」の勝利、しかし…
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痛快でいい夢
■  第3回(2006.10.04)
裁判所は何のために、誰のためにあるのか
■  第2回(2006.09.14)
「平和憲法」実践の積極的提案を
■  第1回(2006.08.02)
神風は吹かなかった
■  はじめに                  

第1回(2006.08.02)
神風は吹かなかった

 私は、過日、同志社大学のメデイア学科に教えに出かけた。そこで教える浅野健一氏とブライアン・コバート氏に頼まれて、彼らそれぞれの講座で話すことを頼まれたからである。ここでは、コバート氏の講座でのことを書きたい。私が話したことと、それに対しての学生たちの反応についてだ。
 コバート氏は関西に住むフリーのアメリカ人ジャーナリストで、アメリカのインターネット・ニュースなどのメデイアで活躍している。私のインタビューもしたが、出色のインタビューだった(注1)。私がこれまでに受けた内外のインタビューのなかで最上のものだと言ってよいだろう。私のことをよく勉強していて、質問もよかったし、多くの点で私と問題意識を共有していて、これが何よりよかった。まったく私のことを知らないで、あるいは知ろうともしないで、そして、まったく何の共通の問題意識のない相手にインタービューされて時間を潰す趣味は私にはない。
 コバート氏は同志社で今講師として「国際コミュニケーション」の講座を持って教えている。そこで話した。英語での講座で、私も英語でしゃべった。学生は六十人ほど。彼の話では、多くが日本人だが、ヨーロッパ人、韓国人、中国人もいる。

 私は、まず、その前日にあったサッカーの「世界杯」大会での日本対ブラジルの試合の話をした。日本チームがブラジル・チームに文字通り完敗した試合についてだ。別に若者の気を引こうと慮ってのことではない。私自身、試合、あるいは日本チームの完敗に考えるところがあって話した。
 「世界杯」大会は、私も興味があってときどきテレビで見ていた。サッカー自体に興味があったのではない。出場のチームの国には私がかつて訪れたり住んだりした国がある。そこに興味があって、ときどき見ていた。
 今度の大会での日本チームの相手国で言えば、オーストラリアには、メルボリン大学の客員研究員として滞在したことがあったし、クロアチアのザグレブはわずかの日数だったが訪れたことがある。
 それだけの印象から言うのではないが、私はもともと日本はオーストラリアに負けると思っていた。クロアチアは引き分けに持ち込めれば最上―と思っていた。先見の明を誇るつもりはないが、その通りになった。この私には、テレビや新聞でいろんな論客がどちらの国にも勝つ、勝てるような話をしているのが、解せなかった。どんな根拠があって、彼らはそう言うのかと、私には不可解だった。
 とりわけ不可解だったのは、論客のなかに、負けるとか引き分けに持ち込めれば上々というようなことを言い出す人が誰ひとりいなかったことだ。これはほんとうにふしぎだった。まるでそんな異論を口にすれば村八分になると、みんなが恐れているようだった。日本がかつて大きな戦争に入って行ったときのようだと、まだ幼かったが当時の記憶がある私は思った。
 おどろいたのは、オーストラリア、クロアチアに敗れたあと、日本チームが世界最強の、その触れ込みのブラジル・チームと対戦することになったときだ。誰もがどうも勝ち目がないと内心では思っていたにちがいないのに、そうはっきり誰ひとり言わない。二点だか三点だか勝ち点を上げないと前に進めない―と言っているうちにいつのまにかそれが既成事実であるようなことになって、誰ひとりボロ負けに負ける、なんとか引き分けまで持ち込め―とは言い出せなくなったのか言わない。これではほんとうにいくさが始まる前の日本だと、そのころを少しは知る私は思った。テレビの画面には「必勝祈願」をする人も「神風」の鉢巻の若者も出て来て、これではまさに開戦前夜の日本だ。
 振り返って考えてみると、あのころ日本は負けると明言していたのは私のまわりでは私の父親ひとりだった。「あのころ」と言うのはアメリカ、イギリスの京大国相手に日本が「太平洋戦争」、当時の言い方で言えば「大東亜戦争」をやらかそうとしていたころのことだ。
 私はそのころ「国民学校」三年生だったが(小学校はナチ・ドイツの「フオルクス・シューレ」の真似をして、一九四一年四月から「国民学校」に変わった。十二月に「大東亜戦争」が始まった)、私は子供心に、この戦争は起こったら、それまでの図体は大きいが弱い、それも弱いことおびただしい(と私は大人と同じように信じ込んでいた)「支那」相手の「支那事変」とちがって強大な、そして日本よりはるかに近代的で武器も最新のものを持っていると見えた「米英」相手の戦争だ、いったいどうなるものかと案じていた。そのころの子供は性的には今の子供よりはるかにおくてだろうが、こういうことには逆にませていた。そして、いつの時代にあっても、子供は時代時代の国や社会の空気をもっともよく体現しているものだ。「少国民」(と私たち子供はよく言われた。そうでなかったら、「良い子」だ。呼び方自体に時代が出ている)の私の不安、危惧はそのまま多くの大人の国民がもっていた不安、危惧だったにちがいない。
 しかし、誰もがその不安、危惧を口に出さなかった。新聞、雑誌を見ても、ラジオを聞いていても、日本は最後には勝つという話ばかりだ。その根拠たるや、要するに日本は「神国」で、最後には「神風」が吹くというようなことで、これは「少国民」にもにわかに信じがたい話だった。そのころ私を少し安心させたのは、そのころの海軍のスターだった――と言っていいにちがいない大本営の平出大佐が口にした(この海軍大佐は万事野暮ったく泥臭いイガ栗頭の陸軍軍人とちがって長髪をきちんと分けたスマートな軍人だった。人気の秘密もそこにあったのだろう)「われに航空機四千機あり」ということばだった。戦後の話では旧式オンボロ飛行機を入れて数え上げればそれだけの数字になったという話だったから、のちの「大本営」発表のように真っ赤なウソではなかったらしいが、「神風」話は私を安心させなかったが、この数字は私をまちがいなく少しだったが安心させた。私がここで言っておきたいのは、そのころの日本人といえども、神がかりの話は一部の狂信者を除けば受けつけていなかったことだ。
 しかし、それでいて、私の父親のようにはっきりと「日本は負ける」と言う人はまずいなかった。「勝つ」と確言する人も少なかったと記憶するが、たいていは「最後は…」というような言い方でごまかした。もちろん、「最後は」神風だ。そう言外に言った。
 私の父親は別に平和主義者でもなかったし、反戦論者でもなかった。彼は戦前の日本の歴史のなかでまだしも自由な時代だった「大正」時代に大学を出た、まともな常識をもった日本人だった。その「常識人」の日本人は私に 「アメリカと日本の国のサイズを比べてみろ、日本が勝つはずがあるか」とよく言った。
 これは「少国民」の名誉にかけて言うことだが、私は別に父親に言われたから不安に駆られていたのではない。もともと自分で考えて不安だったところに父親の「常識」のことばだ。それで私はいっそう不安になった。そう言ったほうが当っている。しかし、それは私だけのことではなかっただろう。「少国民」の私だけではなく大人の国民も同じだったにちがいなかった。たいていの日本人がいくさの行く末について「これで行ける」と安心できたのは、そう思えたのは、いざいくさが始まって、真珠湾の奇襲攻撃で勝利したと知ったときではないかと、そのときの体験をもつ私には思える。私が勝報を初めて聞いたのは「常識人」の家庭のわが家では父親も母親もその日の朝何も言わなかったので、そのころは学校へ行くのに「集団登校」をしていたからその「集団登校」の集合場所においてのことだったのだが、「集団登校」の級友の口からその奇襲攻撃の勝利のニュースを聞いたとき、私はよろこんだのではなかった。何よりもまずホッと安堵した。それがそのときの正直な気持だ。よろこびはあとから、そのあと少し落ち着いてから来た。それはそれだけ私の不安が大きかったことを示していた事実だろう。
 その日の新聞でなかったと思うが、次の日の新聞あたりから皇軍の大勝利を狂喜し褒め上げる有名文人の詩文が山と現われたが、その今となってはただ気恥ずかしいだけの詩文の底に、私はそのときの私と同じホッと安堵した気持を読み取ることができるように思えて仕方がない。それだけ彼ら有名文人にあってもいくさの先行きについて不安は大きかったにちがいない。「少国民」も有名文人もおたがい不安を共有していた。

 私は日本対ブラジルのサッカーの試合をテレビの場面で見ながら、これはまさに「大東亜戦争」だと思った。見終わってから、試合前の「勝つ、勝つ」の空騒ぎを含めてすべてを振り返っていっそう強く「大東亜戦争」の敗北―徹底した大敗北を考えた。そこでも、ついに「神風」は吹かなかった。
 ブラジル・チームに対する日本チームの敗北が「大東亜戦争」の敗北と似ていたことは、それが徹底した大敗北であったこと以外にもいくつもあった。
 ひとつは日本チームが最初に一点をあげたことだ。これは真珠湾での奇襲攻撃に似ていた。オーストラリア・チーム相手の場合でも最初の一点をあげたのは日本チームだったこともここで指摘しておこう。オーストラリア・チームの場合は知らないが、ブラジル・チームの場合は日本に奇襲攻撃よろしく一点をとられるまで明らかに油断、あるいは相手を見くびっていた様子が見て取れた。一点取られてから、彼らは本気になった。またたくまに態勢を取り直して、それ以後は日本チームを寄せ付けなかった。それは素人の私がテレビの場面を見ているだけでも確然と見えた。彼らは日本チームを文字通り翻弄していた。もうブラジル・チームの勝利は確実だった。そう彼らは確信し始めた。それは彼らがゴール・キーパーを必要もないのに、たぶん次の試合に備えて慣らせておくために変えたことで端的に表されていた。そして、彼らは圧倒的な強さを示して勝った。
 これは「大東亜戦争」の日本の緒戦の勝利から最後の大敗北に至るまでの過程そのままの試合の動きだった。実際にその過程を体験したことのある私には、この試合での日本チームの敗退のさまはテレビで見ていてこたえた。ブラジル・チームに翻弄される日本チームの姿に、私はかつての自分たちを投影していた。「神風」の鉢巻をして呆然としている観客―サポーターの姿もテレビは一瞬映し出していた。
 「大東亜戦争」の敗北との類似は、試合の前の日本社会に立ち込めていた空気だ。空気は、日本の大敗北で試合が終わったあと、テレビで誰かが言っていた、「あのときには負けるなんて言えませんでしたよ」の一語に要約できる。これも「大東亜戦争」さながらの事態だった。日本は変っていないなと私は思った。

 コバート氏の講座で私はそうした日本対ブラジルのサッカーの試合と大東亜戦争との類似を話した。二つともに大敗北においての類似だ。話の途中で、私は写真のコピーを見せた。一九四五年六月一五日の大阪空襲の写真のコピーだ。空襲の写真と言っても、空襲する上空のB=29[超空の要塞]爆撃から取った大阪市街の写真である。地図状に拡がる市街の上をさらに黒煙、白煙が覆って拡がる。「私はここにいた」とその黒煙の広がりのなかの一点を指して言った。
 それは事実だった。写真で見ればただの黒煙の広がりだが、広がりのなかは火炎が燃え上がり、つむじ風が起こり、風のなかを火の巨大な木切れや金属片が飛ぶ、そこで人が倒れて死ぬ―まさに生き地獄だった。日本にはもうこの空襲に抗する力を失っていたから、あれはもう戦争ではなかった。一方的な殺戮と破壊だった。私はなかにいて、なんとか生き延びた。大阪はこの一方的殺戮と破壊の都市やきつくし空襲を一九四五年三月から八月十四日午後、戦争が終わる二〇時間足らずの前まで八度受けているが、私は八月十四日の空襲に至るまで三度体験している。
 私は写真のコピーを学生たちに見せ、そうした話をしてから、そのコピーをつくったもとの新聞、一九四五年六月十七日付けの「ニューヨーク・タイムズ」を見せた。
 その日は日曜日で、日曜日のアメリカの新聞はどの新聞も大部百頁を越すものを出す。それにたいてい日曜雑誌やら書評雑誌やらを付録につけて、小脇に抱えられないほどの分量になる。その日の「ニューヨーク・タイムズ」もそうで、本紙は一三〇頁を越していた。それに日曜雑誌など付録雑誌がいくつか。おどろくのは、それほど大部な日曜版がそのころ出ていたということだが、それも道理、戦争はアメリカではもう終わっていて、これは平時の日曜版だ。六月一七日の「ニューヨーク・タイムズ」もすべて世はこともなしで、株式欄もあれば写真つきのプロ野球の記事も出ていれば、求人の三行広告もえんえんとつづけば、誰それが結婚したとか婚約したとかの社交欄もこれも美女美男の写真つきではなやかにある。それともうひとつ何よりおどろかせるのは、毎頁毎頁の紙面の大半を占める大きな広告だ。家具の広告も高価な食器の広告もあるが、多くは婦人服、靴、帽子、下着などの女性ファッションの広告だ。これらすべて、今、現在の「ニューヨーク・タイムズ」を買って比べても、まずちがいはないだろう。平和が大部な新聞のいたるところに充満していた。
 では、戦争はどこにあったか。まず、ほとんどなかった。ヨーロッパでは戦争はすでに終わっていたし、アジアでもまちがいなく終わりに近づきつつあった。その日の一三〇頁余の「ニューヨーク・タイムズ」に出ていた戦争の記事は一面にはなくて、二面の上部にだけ沖縄戦の記事が出ていた。沖縄戦は多くの人の自殺、「玉砕」とともに六月二三日に終わるのだから、記事は、われらはかく攻め、彼らはかく追い込まれ、やがて終わる―だ。記事には、今沖縄で「南部戦跡めぐり」のツアーにでも行けばくれるのとそっくりの逆三角形の南部の半島の地図がつけられていて、そこにはあと一週間足らずで自決の場所となる「MABUNI」というような地名が書かれている。
 もうひとつ衝撃的な戦争の記事は、本土防衛の司令官が「日本の女はすべて沖縄の女性のごとく戦って死ね」と演説したとかいうニュースだ。これが衝撃的なのは、その演説の中身のことのみならず、そのすぐ横に演説を報じたその頁の紙面三分の二ほどを使って、ショーツや短いスカートを見につけた女性達が乱舞するどこかの百貨店の「サマー・セール」の広告が出ていたことだ。
 大阪空襲の写真は本紙ではなく付録の日曜雑誌に出ていた。本紙と同じように家具、食器、女性ファッションの広告と平和記事、非戦争記事充満のなかに突然出現して来たのが、この一頁の写真だ。写真には次のキャプションがついていた。
 「一都市一都市、日本帝国の中心都市は焼夷弾と爆発物によって破壊されつつある。人口密集の火災を起こしやすい工業都市は、大阪(上図)が中で最大だが、今、われらの巨大な超空の要塞機は何千トンにわたって工場と労働者の住居に注入しつつあるゼリー状ガソリンの完璧な目標である。他の都市の大部分は、東京、横浜、神戸、名古屋など、われらの戦略爆撃開始一年度において、すでに消滅したと言われている。そして、この攻撃は日本が破壊されつくすか、降伏するまでつづけられ、強化される。」
 ひとつのことを除いて別につけ加えて言うことはない。「ゼリー状ガソリン」とはナパーム弾のことである。「ゼリー状」なので、「投下」と言わずに「注入」と言っているらしい。こちらのほうが余計おぞましい気がする。

 私は学生たちにこういった話をしてから、さらにことばを継いで、「日本はこんな状態になっていた。しかし、神風は吹かなかった。それで、どうしたか。きみらと同じ年ごろの若者たちが自分たちで神風に化そうとして、『神風特攻隊』―『特攻』になって自分の生命を犠牲にした。あるいは、『玉砕』して死んだ。二つともに兵士の死を当然、必然の前提にした前代未聞の絶望的自殺攻撃だった」とつづけた。いや、もうひと言、つけ加えた。「しかし、兵士達は死んだが、日本は戦争に勝てなかった。大敗北を遂げた。」
 大敗北のあと、日本はもう決して過去の軍備拡大と対外侵略に基本を置いた国の進路を取らないことを決めて、反戦、平和の国のあり方をとって、今日の日本をかたちづくって来た。そのあり方の基本を定めたのが戦後の日本の憲法―戦争と軍備放棄を規定した「九条」をもつ「平和憲法」だと私は話をしめくくった。

 私はかつて「玉砕」を主題にして、その題名で小説を書いた(新潮社・一九九八)。のちに、彼自身がアッツ島での「玉砕」戦のアメリカ側からの参加者だったアメリカの高名な日本文学研究者のドナルド・キーン氏が英訳し(Donald  Keene、"The Breaking Jewel"、Columbia Univ. Press・2003)、その英訳をもとにしたラジオ・ドラマをイギリスBBCワールド・サービスが昨年二〇〇五年八月六日、「ヒロシマの日」(BBCはその日をそう呼んでいる)に全世界向けに放送した。ラジオ・ドラマの作者はテイナ・ペプラー(Tina Pepler)。彼女は《GYOKUSAI》の題名の下に彼女のドラマを書いた(注2)。
 私は話のあとこのラジオ・ドラマのCDの冒頭の部分を学生たちに聞かせた。冒頭の部分には、ドラマ自体が始まる前にBBCが私に対してしたインタビューがある。まず、彼らは日本はなぜこうした絶望的な「玉砕」戦をしたのかと訊ねた。私は答えた。「小国が大国と戦争しようとすれば、とるべき戦術、戦略は二つある。ひとつは奇襲攻撃だ。日本はこれを真珠湾攻撃に使ってある程度成功した。しかし、戦争が長期化すると、大国との戦争をつづけるために小国が用いなければならないのは独特で変った戦術、戦略だ。これが『玉砕』攻撃だった。『神風』の自爆攻撃でもあった。戦争に勝利するために、戦闘に勝つために、彼らは生命を犠牲にした。しかし、勝つことはできなかった。『玉砕』は悲惨な行為だと私は思う。彼らの死は無駄だった。」
 彼らはなぜ自爆攻撃で死ぬ覚悟だったのか。「彼らは天皇のために死んだ。大日本帝国の栄光のために死んだ。しかし、天皇は戦後生き延びた。たいへん奇妙だ。天皇は彼らとともに死ぬべきだった。しかし、天皇はそのまま無傷に生き残った。戦後の今、彼はある種の平和のシンボルと考えられている。このような『玉砕』攻撃の論理と倫理に大きな疑問をもち始めた人もいた。私もそのひとりだ。そうするうちに、『玉砕』攻撃で無駄死にした兵隊たちへの私の思いはますます大きくなり、それが私に小説を書かせた。この『玉砕』はそうした小説だ。」
 ドラマ自体は私のこのことばのあと始まる。この私のことばを含むドラマの冒頭の部分をCDで学生に聞いてもらって、私の話はすべて終った。

 私の話は学生たちにかなりの衝撃をあたえたらしかった。それは話のあとの学生たちとの質疑応答でも感じとられたことだが、そのあとコバート氏が送って来た学生が書いた(コバート氏の英語での講座なので英語で書いた)感想文から、自画自賛するつもりはないが判断できた。衝撃は彼らの若い精神とともに頭脳をもゆるがせたらしくて、感想文はひとつひとつが面白いもので、私にとっても刺激になってよかった。
 私が話したことが彼らに衝撃をあたえたのは、話したことの多くを彼らが知らなかったからだ。私は「不思議の国のアリス」、当世風に言えばハリー・ポッターの話をしたのではなかった。私は彼らが知っているはずの日本の過去、それも縄文時代の話ではなく彼らが生きている現在の日本といやおうなしに直接につながる過去の話をしたのだ。その過去を彼らは多くを知らなかった。その事実を、私の話は明らかにした。これは彼らに衝撃をあたえた。
 もうひとつ彼らの若い精神と頭脳をゆるがせたのは、私がその過去を語るとき、私自身の体験と知識に基づいた認識と判断とともに語ったことだ。私は過去を語るにあたって、曖昧でなかった。すべてを私が知るかぎり、またできるかぎり明瞭、明確に述べた。そうしたことはすべてこれまで一度も彼らが聞いたことがなかった事態だったのだろう、彼らは衝撃を受けた。そう書いて来ていた。
 過去をはっきり明瞭、明確に把握しないとき、現在、未来について明瞭に考えられないことになる。コバート氏の講座でだったか、それともその次に話した浅野氏の講座でだったか、私は日本のメディアの問題について訊かれて、そのもっとも大きな問題は、メディアの人たちが日本や世界の現在、未来に対して確固とした考えを持っていないことだと答えた。感想文を書いた学生のひとりが、彼は二つの講座に来たらしかったが、それはそのまま自分たち日本の若い世代の姿だと書いていた。「私たちは大きな流れのなかでただ浮いている感じがする。」これがたしかに今の若い世代の正直な実感だろう。

 この正直な実感に対して、同志社での私の話が何をもたらしたかは知らない。ただ衝撃をあたえたことはたしかだろう。いくつか彼らの感想文を最後に抜き出して訳して書いて、この私の一文を終わりにしたい。

 ●今日のクラスは私にとって本当に理想的なクラスの例だった。私たち学生は若くて、頭脳ではなく心に達する経験を必要としている。私も他の学生も日本が経験した戦争について具体的なことを知らない。それゆえ今日のクラスで小田氏が話したようなことが世界における自分たちについて考えるためのキイ(鍵)になる。
 ●私は第二次世界大戦、真珠湾、「大東亜戦争」についての本は読んで来た。おかげで、私はそれらについて一般的なことは知っている。しかし、事実は、ただ戦争の表面を知っているだけだ。それゆえ、小田氏のように明瞭な主張、意見をもつ人間は貴重だし、価値あると私は思う。
 ●私はほんとうに彼の戦争についての話をよろこんで聞いた。私は世界戦争の真実の姿を知らなければならなかったのだ。さらに、日本の市民について、今日の「世界杯」にからませて話してくれた。彼は勇敢だと思った。年取った人々の多くは戦争の悲劇について語ろうとしないのだから。しかし、彼は語ろうとした。
 ●小田氏の話は貴重だった。ありがとうを言いたい。私たちは私たちが見たくない過去の多くの姿に眼を向けなければならないと思う。事実は惨めなものだったが、それを戦争とテロリズムの時代の今考えなければならない。
 ●私は小田実氏のような人に会えてよかったと思っている。しかし、私はもっと今日のことについて知りたい。もう一度、彼の意見を聞きたい。

 学生たちの感想文を読み終えて、私は学生たちも年上の世代の人たちも、どちらもが過去を直視し、そこから自分達の現在、未来を考え直すことを今迫られていると思った。
 今は日本、世界誰にとっても大変革期に来ていて、万事新しいものが求められている時代だ。しかし、その新しいものは、過去を直視することを通してしか生まれない、生まれ得ない。

 さて、あなた―この一文を今お読みになるあなたは、同志社で私が話したことと学生たちの反応についてどう考えられるか。それを考えていただくために、私は「西雷東騒」の「新・西雷東騒」としての連載の第一回を、来月の第二回からはこれまでと同じほどの短い文章に戻すが、この異例に長い一文にした。

 (注1)このインタビューはhttp://www.indybay.org/news/2006/03/1807676.phphttp://www.indybay.org/news/2006/03/1807672.phpで見られるとよい。
 (注2)、私の小説「玉砕」とペプラーのラジオ・ドラマ「Gyokusai」の台本、二人それぞれのエッセイ、私とキーンの「対話」などを収めた「玉砕・Gyokusai」が小田実、テイナ・ペプラー、ドナルド・キーンの共著で9月始め、岩波書店から出版される。




 「神風は吹かなかった」とは直接関係ないが、私の市民としての政治行動として、私が代表をしている「市民の意見30・関西」が主催するこれからの集会について少し書いておきたい。
 八月十四日に大阪で、私たちは「『八・一四』と『九条』」と題した市民集会を開いて、「八・一四」の大阪の体験から憲法の意義をあらためて考える。「神風は吹かなかった」で私が書いたように、大阪は一九四五年八月一四日、日本が正式に降伏を天皇の「玉音放送」で宣言した翌一五日からわずか二〇時間ほど前に米軍機の大空襲を受けた。アメリカによる一方的な殺戮と破壊の最後の例だが、これには国体=天皇制の護持、さらに言えば、天皇の身の安全の問題も絡んでいた(九月に岩波書店から出る「玉砕・Gyokusai」のなかで私は詳しくその経緯を書いている)。私たちは、その「大阪体験」に基づいて憲法の問題を、この市民集会で考えて行こうとしている。最初にまず私が問題提起のかたちで話し、あと参加者が自由に発言する。
 九月一一日には、同じ大阪で、「『九・一一』と『九条』」の市民集会を開く。「九・一一」の意味はお判りだろう。それはそれ以後のまさに今の事態だ。その事態に向き合って、憲法の重要性がある。その認識の下に私たちはこの市民集会を開く。まず話すのは、鶴見俊輔氏と私。あとは参加市民。(二つの集会ともに時刻、場所の詳細は、〇七二九・九八・一一一三へ)。

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