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■ 最近の寄稿より




『軍縮問題資料』2003年7月号 掲載
アメリカと今いかにつきあうか ――日・米・韓で、今、考えたこと――

 アメリカと今いかにつきあうか。今、世界はこの問題を問われている。日本人も韓国人も、いや、アメリカ人自身がこの問題にぶつかっている。

 ここで私が今、「アメリカ」と言うのは、「民主主義と自由」の旗じるしの下で、「正義は力なり」と、世界中にまき起こった反戦の叫びを無視し、国連もないがしろにして、イギリスを配下に従え、日本その他の支持を力ずくで得て、「独裁政権」打倒のイラク攻撃を一方的にやってのけた、そして、そのあと、これもまた一方的に「復興」の主役を自任して、国連をも他のどの国をも自分の意のままに動かして「復興」を石油その他の利権がらみでやってのけようとしているブッシュ政権下のアメリカ合州国だが、正直言って、このアメリカと世界はつきあいかねているにちがいない。しかし、このアメリカは力にまかせて、世界の中心にすわっている。世界の中心にすわっている以上、どこの国の誰であれ、私たちはこのアメリカとつきあって行かなければならない。では、いかに今つきあうか。

 ブッシュ政権下のこのアメリカの基本的原理、理念を支えるのは、「ネオ・コン」(新保守主義)と呼ばれる人たちだ。この人たちは、二一世細を「アメリカの世紀」として、今や世界最強の軍事力をもつ「アメリカ帝国」(かつては悪の象徴としてあった「帝国」は今はいいことばだ)に世界を完全に支配させようとする。そのためには、国防予算を増加させて軍拡を行い、彼らが「軍事革命」と称する軍事技術の高度の「ハイテク化」を行って、同時にいくつもの大戦を戦い勝利を得るほどに軍事力を増強する一方で、他方で世界の「警察官」として世界各地に基地をつくり、米軍をおいてにらみをきかせる――これが彼らの大構想だ。

 かつてなら、世界の「警察官」というような言い方は「帝国」同様、禁句のことばだった。しかし、今は、アメリカが世界の「警察官」と言って何が悪い。今、全世界の脅威としてある「テロリスト」、あるいは、それを支持する(より正確には、そうだとアメリカが認定する)国家を抑止、撲滅するのは、アメリカ以外、他に誰がいるのか。そうアメリカは、今、主張し、場合によっては、まさにイラクがそうであったように、この「警察官」は強大無比な軍事力を行使して「政権交代(レジームチェンジ)」をやってのける。いや、やる能力がある。そう平然と「ネオ・コン」のブッシュ政権の高宮は、今、言ってのける。

 私たち日本人が住む東アジアについては、よく「ネオ・コン」の基本文献とされる2000年9月の報告書「アメリカ防衛の再建」によれば、よしんば韓国が「南北統一」を実現しても、基地は維持し米軍は居つづける。沖縄の基地、米軍についても同じ。いかなることがあっても、基地と米軍は持ち続ける。それは、今やアメリカに対抗し得る唯一の大国、中国を包じ込め、動けなくさせるためだ。

 この報告書のなかの提案がすべてブッシュ政権によって実施されて来ているとも、これから実施されて行くだろうとも言うつもりはない。しかし、1年後の2001年9月11日の「同時多発テロ事件」以来、この報告書に述べられていることが現実的な基盤を得て実施されて行きつつあることもまぎれもない事実だ。このアメリカと今いかにつきあうか。

 私は政治の要路の人間ではない。私はただの作家であり、ただの市民だ。その立場で書く。政治の世界の要路の人間だけでことを決められてしまってはたいへんな事態になるという危惧が私にはあるからだ。たいへんな事態の先例はある。それは、中国侵略から始まり、アジア・太平洋戦争に拡大し、ついには「殺し、焼き、奪う」歴史のはてに「殺され、焼かれ、奪われる」歴史の展開をもって終わった(前者の歴史を端的に示すのが「南京虐殺」なら、後者を示すのが「ヒロシマ・ナガサキ」のアメリカの「原爆」による殺戮、破壊だろう)日本自体の過去だ。

 この四月末から五月始めにかけて、私はアメリカと韓国をつづけて訪れている。アメリカでは、ニューヨークで、ジャパン・ソサエティーが開催した「日韓会議」で話したあと、私の小説『玉砕』の英訳が三月に出たのを機にして同じジャパン・ソサエティーが主催して開いた会に出て、訳者、ドナルド・キーン氏と講演した。韓国へは、日本へ帰国後すぐまた行き、大邸の嶺南大学のシンポジウムで話した。シンポジウムの主題は、まさに、「アメリカと今いかにつきあうか。」

 ニューヨークでの「日韓会議」もこの同じ問題に直接・間接にかかわっている。私の小説『玉砕』(英訳の題名は "The Breaking Jewel", Columbia Univ Press, 2003)は根本的な意味での「反戦小説」で、これは今や強大な「帝国」としてあるアメリカ合州国のありようと対立する。その意味で、「アメリカといかにつきあうか」の問題と結びつく。ひとつつけ加えて言っておけば、訳者キーン氏は、アッツ島をはじめとして沖縄戦に至る「玉砕」のいくさのアメリカ側における「目撃者」だった。その彼が「ぜひ訳したい」と言って、訳した。「名訳」である。彼の思いがこもっている。

 ただの作家、ただの市民として、私は私自身のアメリカとのつきあいを、まず書くことにしたい。私にとって、つきあいは日本がアメリカと正面きって戦った「アジア・太平洋戦争」−当時の言い方で言えば「大東亜戦争」の末期、米軍機による空爆から始まっている。当時私が住んでいた大阪に切れ目なくやって来た米軍機が私の頭上に投下して、街破壊しつくし、焼きつくし、人を殺した爆弾から始まったつきあいである。当時、私は13歳、中学一年生。

 あれはもう戦争ではなかった。戦争は、理由はどうであれ、敵対する勢力が武器を使って殺し合いをすることだ。しかし、当時の日本はもうその力を失っていた。空爆は地上の日本人には対抗する手段のない一方的な殺戮・破壊だった。私たちはただそれを受けた。米軍がイラクに対する一方的攻撃を始めたとき、私がすぐ当時の私と同年輩の少年のことを考え出したのは、彼らが抗する術もなく受けたのも米軍による一方的な殺戮・破壊だったからだ。そして、類似はそれだけではなかった。私にとっても彼らにとっても、突然、戦争は終わり、平和が来た。同時に米軍の占領は始まり、自分の側の一切は「悪」とされ、一方的に破壊と殺戟を行った側のすべては「善」とされた。「アメリカはこれで生きてきた。あなた方もこれからこのまちがいのない政治原理に基づいて生きるのだ」と持ち込まれたのが民主主義と自由だった。私はそのとき「民主主義」はそのことばさえ知らなかった。そして、「自由」は日本人が持ってはならない「悪」だった。今のイラク人にとって、二つはどのようなものとしてあるのか。彼らはこれからどうするのか。私の彼らに対する重い思いはそこまでひろがる。

 それは、そのあと、私自身をふくめて日本人が、その政治的にはたしかにまちがいのない原理としてある民主主義と自由を自分のものとして取り入れて、生きて来た戦後の歴史があるからだ。ただここで重要なこととして書いておきたいのは、アメリカから民主主義を貰った(「配給された」と評した人もいた)日本が、そのままのかたちで受け入れて釆たのではなかったことだ。民主主義と自由を日本はアメリカから平和なかたちで貰ったのではなかった。一方的な殺戮と破壊のはてにそれはもたらされた。また、その一方的な殺戮と破壊は、「殺し、焼き、奪う」歴史のあとの「殺され、焼かれ、奪われる」歴史の最終的な展開のなかでの殺戮と破壊だ。この体験からこれしか納得できるものはないものとして日本人の多くがもち始めたのが、「戦争に正義はない。してはならない」の「平和主義」だが、この「平和主義」を民主主義と自由に結びつけ、この車の両輪を基本にして日本人は独自の民主主義と自由の原理をかたちづくった。この車の両輪をもっともよくあらわしているのが「平和憲法」だろう。「平和憲法」は「主権在民」の民主主義に「第九条」の平和主義を強力に結びつけた政治原理だ。この車の両輪の政治原理をかたちづくることで、初めて民主主義も自由もアメリカ直輸入のものでない、日本人自身のものになり、日本人のなかに定着した。戦後をその始まりから生きてきた私にはその実感がある。

 私が、こうしたことを書くのは、ひとつには一方的な殺戮と破壊のあとで民主主義と自由を持ち込まれたイラクの人々のことを考えるからだ。イラクの未来は、アメリカが力づくで持ち込んだ民主主義と自由をいかに自分のものにするか、いかに自分のものとしての民主主義と自由をかたちづくるかにかかっている。新聞によると、「戦後の混乱への対応で、われわれは米軍に協力するつもりでいた。しかし、米軍は誠実ではなかった。荒廃から住民を守るためには、われわれが自らの手でやるしかなかった」と発言したスンニ派の指導者はさらにきびしいことを言った。「米国がイラク国民を救うために戦争をしたのでないことが、現状を見ればよく分かる。もういい。私たちは私たちで国をつくる」(「朝日新聞」2003年5月24日)その「私たちでつくる国」の政治原理が、彼ら自身の民主主義と自由であることを、民主主義と平和主義の車の両輪で自分の国をかたちづくってきた、そこに誇りを持つ日本人のひとりとして、私は期待し、祈る。

 しかし、今、かんじんの日本で、民主主義と平和主義の両輪は急速に力を失いつつあるように見える。これも、私がさっきから民主主義と自由と、一方的な殺戮と破壊の両者によって始まる戦後日本の歴史のことを書いてきた理由だ。車の両輪は、一方だけが衰退するのではない。両輪が駄目になる。そのひとつの例が、野党・民主党が賛成して今や本決まりになろうとする有事法制だろう。これが元来が「アメリカの世紀」実現のためにさいげんなく展開する米軍の活動、それに付随しての自衛隊の活動を「有事」の名の下に容易にする法案であること−は、この法案がかんじんの市民の安全確保の法制度づくりを抜きにしてやみくもにつくりあげられようとする事態自体がよく示している。これではまさに「主権在民」の民主主義ではない。平和主義とともに民主主義も衰退してしまっている。

 三番目の理由――車の両輪の形成の歴史を書いた理由は、日本に民主主義と自由をもたらしたはずのアメリカの民主主義と自由があきらかに衰退して来ているように見えるからだ。多くの人が自分の意見を表だって言わなくなった、声をひそめて語るようになったと、アメリカにいるあいだ、これも多くの人が言った。民主主義と自由は価値の多様性の認識、共生をその本質とする。ことに多民族の「移民国家」で、民主主義をいやが上にもその本質を核心にすえるはずのそのアメリカで、「反戦」を主張した高校生が、今、学校ぐるみの「村八分」で退校、転校を強いられる、これがアメリカだとすれば、その民主主義と自由の力がおとろえれば、それだけ超軍事大国としての「ネオ・コン」好みのアメリカの力が強大になる。私が今イラク人にかかわって危惧するのは、今、イラクにアメリカが持ち込もうとする民主主義と自由がこうした衰退した民主主義と自由であるように見えることだ。つまり、それはそのアメリカがただの軍事大国としてある、石油その他の利権の強大な所有者の資本主義大国としてのアメリカであっても、民主主義と自由の国のアメリカとしてはないことである。スンニ派の指導者のことばはその本質を鋭く示唆していた。

 私のアメリカとのつきあいは長い。

 私が実際にアメリカの土地を踏み、アメリカ社会と人びととの実際のつきあいを始めたのは、50年代末、58年に「フルプライト留学生」としてハーバード大学に「留学」に出かけたときだ(私がここで「留学」と引用符をつけて書くのは、私が大学で留学したつもりはないが、社会の人びとのなかで十分に学んだ、「留学」したつもりがあるからだ)、はじめてニューヨークに出かけた私をおどろかせたのは、目抜きの大通り、五番街の建物にかざられてズラリと並んだ(この「ズラリと並んだ」ということばは私が実際そのとき思い浮かべた形容句だ)星条旗の列だ。そのころ、人びとは星条旗が象徴するアメリカの民主主義と自由に何の疑念ももっていないように見えた。

 しかし、実際のアメリカは、人種差別があからさまに残り、行われていたアメリカだった。南部を旅して、そのアメリカとつきあい、のちにその問題を小説『アメリカ』(河出書房新社・1962)に書いた。いや、その問題自体を書いたのではなかった。その問題と私自身とのかかわりあいについて書いた。

 当時、第二次大戦はアメリカ人にとってまさに「正義の戦争」としてあったにちがいない。私は大学での集まりで、「ヒロシマ・ナガサキ」について少し話した」たちまち私は「真珠湾をどう考えるのか」の攻撃とそれにもまして「白い眼」の無言の非難に出会った。アメリカから帰途、メキシコ、ヨーロッパ、中近東、アジアを半年まわって帰った。帰国したのは、1960年4月、ちょうど安保闘争が終わりにさしかかったころだ。この半年の旅で、私はアメリカが民主主義と自由の使徒であるとともに、膨大な軍事力を背にしてのその破壊者であることも知った。イランでのことだ。石油の国有化をなしとげたモサデグの民主主義政権を力によって叩きつぶしたのが自分の国、「合州国(ユナイテッド・ステイツ)」であったと述べたときの、のちに高名な詩人となった、当時はテヘラン大学で教えていたアメリカ人の友人の顛を私はいまだに忘れることができないでいる。大学の集会での私の体験も、この彼の顔の記憶も、ともに私は帰国後の旅行記『何でも見てやろう』(河出書房新社・1961・今は講談杜文庫)のなかで書いた。

 何年かが経って、私はベトナム戦争−いや、べトナム反戦運動のなかで、新しいアメリカとのつきあいを始めた。運動は私が私と志を同じくする何人かの市民(たとえば、鶴見俊輔、あるいは、開高健)とともに一九六五年に始めた運動「べトナムに平和を/」市民連合(略称「べ平連」)だが、その運動の展開のひとつがアメリカの反戦運動との連携だった。私はこの連携を通じて多くのすぐれたアメリカの知識人たちとつきあいをかたちづくったが(たとえば、世界的な言語学者で、現在は代表的な反体制論者として知られるノーム・チョムスキー氏。彼とは先日もボストンで会った。彼の状況分析に対して、私は「少し楽観的すぎるのではないか」と言った)。このつきあいでもっとも重要だったのは米軍の一員でありながら反戦を主張した基地の「反戦兵士」や反戦を自らの行動によって体現した「脱走兵」とのつきあいだった。私は彼らとのつきあいを通じてアメリカの民主主義と自由がもたない、民主主義と平和主義の車の両輪の重要性をあらためて知った。彼らの何人もが「このすばらしい平和憲法をもつ国で暮らしたい。わたしたちの国には、こうした憲法はない」と語った。

 このベトナム反戦運動を通じてのアメリカとのつきあいのあと20年余が経って、私はニューヨーク州立大学で二年教えた。これはいわばアメリカとの「ふつうのつきあい」だった。私が教え始めたのは、ちょうど、アメリカは世界の「警察官」のような役割をやめ、「ふつうの国」として生きようと強く訴えて、クリントン大統領が出現した1992年のことだ。

 しかし、そのあと、彼は「不倫」で一世に名をはせたあと引き退いた。今はまた大統領が世界最大最強の国アメリカは世界の「警察官」どころかその最高の支配者としてあるべきだと声高に説き、その方向へ世界全体を動かそうとしている。

 今年四月から五月にかけてのアメリカは、他のどのときよりも50年代のアメリカに似ているように私の眼に見えた。ニューヨークの五番街には、50年代同様、星条旗がズラリと並んでいた。それだけアメリカが保守化したと言えるにちがいないが、50年代のアイゼンハウワー大統領は「産軍複合体」の危険を民主主義と自由の国アメリカの当面する最大の問題として説いた。しかし、今、ブッシュ大統領は、それこそアメリカの未来に欠かせないことだと、今、現にさかんに「産軍複合体」をより大きく強力に実行しようとしている。

 このアメリカと今いかにつきあうか。日本はどうするか。私は政治の要路者ではない。しかし、日本の市民として、民主主義と平和主義−その車の両輪に徹したつきあいを日本は今こそまさに行うべきだと考える。それが衰退したアメリカの民主主義と自由をふたたびよみがえらせ、世界全体の民主主義と自由、そして、平和を強化する。ブッシュ政権のアメリカにただ追随することは、逆の方向に事態を導く。それは世界の民主主義と自由を危機におとし入れ、平和を破壊し、破滅さえ招く。民主主義と平和主義の車の両輪をもつ日本には、世界の一員として民主主義と自由の危機と平和の破壊、その二つを招来させない責任がある。






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