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■ 掲載記事




東京新聞・中日新聞掲載(2004年7月7日号)

随論「老いる」7
老いてこそ「市民」

 私は「老いてこそ市民」と考えている。

 現代社会はみんなが働いて成立、維持している社会だ。子どもはそれこそ「学生(がくしょう)期」で、働く準備をしている。「林住期」「遊行(ゆぎょう)期」の年よりは、「家住期」で十分に働いたのだ。ゆっくり休みたまえ―で社会全体が支える。これが「文明」というものだ。イタリア共和国憲法第一条は、こうした現代社会を「イタリア共和国は労働に基礎を置く民主的共和国である」とうまく言い表している。

 働くことに職業と技能が結びつく。会社員も工場労働者も農民も商店主も店員も役人も教師も医者も家庭の主婦もフリーターも職能を通じて働く。みんなが真面目に働いていれば、問題は何も生じないはずだし、また生じても職能を通じて解決できるはずだ。世には問題解決を職能としている役人、政治家もいる。しかし、解決できない。みんなが集まって解決をはかるより仕方がなくなる。それはすでに問題が職能の違いを越えて市民全体に大きくひろがるものとしてあることだ。そこに集まって来た人たちは、「職能人」として問題を解決できなかったのだから、すでに「職能人」ではない。では何か。問題をいくら論じてもラチがあかない。じゃあデモ行進に出るべし。デモ行進をするのに名刺交換をする人はいない。誰とも分からぬ老若男女がともに歩く。これが「市民」である。こうした「市民」が「サラダ社会」としての市民社会をつくり上げる。

 老いて定年退職、お役ごめんとなることは自分が「職能人」でなくなったことだ。その自分のありようを「市民」として受けとめるとき、新しい人生が始まる。「林住期」に入ってツボをつくるのもよし、旅をするのもよしだが、私が今日本の各地を歩いていて強く思うことは、「イラク派兵」反対のデモ行進にも「改憲」阻止の集会にも、こうした年より「市民」が少なからずいることだ。

 面白いのは、こうした年より「市民」が「古老」の顔をしていないことだ。テレビで見ていると、お祭りのくだらぬしきたりを村の「古老」が出て来て、そこで何百年と生きて来たような顔で得々と弁ずる。しかし、年は―何、62歳?アホぬかせ。それなら私は十歳も年上だ。デモ行進で会う年より「市民」はそんな「古老」の顔をしていない。老いてこそ「市民」の顔をしている。






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