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■ 掲載記事




東京新聞・中日新聞掲載(2004年7月1日号)

随論「老いる」3
される→する→される

 インドのヒンズー教は人生を学生(がくしょう)期、林住期、家住期、遊行(ゆぎょう)期に分けたが、私はもっと単純に「される」→「する」→「される」の移行としてとらえる。まず最初の「される」だが、人間は自分の意志で、つまり、「する」こととしてこの世界に生まれてくるのではない。石坂啓が描いた漫画で卓抜なのがあった。生まれる前の赤ん坊がへその緒をひきずりながらお母さんの体の外に出てこの世のさまを見て歩いて、こんなところに出たくないと言って、そのままお母さんの胎内に戻ってしまうのだ。今の世界のさま、出てきた赤ん坊がそのまま大半が胎内戻りをしてしまうのではないか。しかし、現実はそうは行かない赤ん坊は生まれて来てしまうのだ。いや、生まされて来てしまう。

 この誕生に始まる人間の「される」時期は、ヒンズー教の言う「学生期」に当たる。人間はそのあいだに育てられ、学校へ行かされ、種々雑多いることいらないこと(多くがたぶんいらないことだ)をしこたま教えられ、押しつけられて、さて、その次は「家住期」だ。人間の「する」時期が始まる。

 この「する」時期のなかで何パーセントかの頭良き者、力強きもの、みばえよき者などが社会の中心近くに進んで、えらくなり、金持ちになり人気者になっておのずと社会をピラミッド型のものにし、他の何十パーセントかを彼ら「する」側が「される」側にしてとりしきる。こうしたピラミッド型における「する」が「される」に君臨する関係は規模を小さくすればどこにでもある。会社の課長はヒラに君臨し、お父さんは家でいばる。

 しかし、「する」側も老いてくれば、「人間みなチョボチョボ」の鉄則に従って、みんながタダの人になる。ヒンズー教では「林住期」に入る時期だが、わが世知辛い国の日本では、多くの人にとっては定年退職の時期だ。第二の職探しをして、やっとそれがなんとか見つかって、第二、第三の人生だと働いているうちにさらに年老いて、ついに家に戻る。「遊行期」だが、日本人はまずインド人のように「聖者」になる人はいないだろう。たいていが、インド人の大多数がそうであるように、まわり(「まわり」には家族、病院、施設いろいろある)にやっかいになりながら、生まれて来たときと同様、「される」側に立ち還って、しばらく生き、死ぬ。誰も自分で自分の葬式は出せない。






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